少し前の話ですが、先々週末の土曜日に福富町のワークショップに参加してきました。

福富町が県の移住・定住促進の指定を受けたことで、まちの魅力を話し合う場として設けられています。県や市、自治協の方、大学の先生・学生、雑誌編集者、ワークショップ運営の方、もちろん地域の方々、いろんな立場の方々が集まってのワークショップです。前回までに既に具体的なアイデアが出ている中で、今回はアイデアごとに分かれたグループディスカッションという形式でした。

僕達が参加している近畿大学谷川研が空家再生する古民家を交流拠点として、どのような魅力を発信できるかを議題に、初めは他愛もない雑談からスタートしていました。子供の頃にこんな経験をした、今の子供達にはこんな経験が足りない、なんてことから話を膨らまそうといった感じだったのですが、「そんなことよりもまず、『なぜするのか?』というブレない軸をつくることが大事だ。」といった発言があったことから、それに沿って話を進めることになりました。

確かに、ブレない軸をつくることは僕もすごく大事なことだと考えています。例えば、大学での設計の授業で学生に対しても「コンセプトが大事だ」、「何が一番やりたいかを明確にすべきだ」なんてことを恥ずかしげもなく言ってますし、それ以外にも、一般的には野球のバッティング理論であったり、僕は子供が陸上をやっていることから、走りやハードリングのことなど、運動理論に関する物理的なことに対しても「軸がブレないように」なんてこともよく言ってます。話は少し違うようですけど似ていると思うんですね。

まあ、そんなことで進めていたディスカッションも、カチッと形式ばった話になったことから、発言が少なくなってしまった地域の方が出てきてしまったのです。僕は途中からそれがすごく気になり出し、この議論の方法が本当に正しいのか疑問に感じ始めました。

こういった場が設けられた場合、ちょっとしたプロの方や何度も経験済みで慣れた方もいらっしゃって、そういった方は型にはまった進行をしようとする傾向にあるようです。「なぜ」「どのように」。もちろんそれが決まらなかったら、物事が実行しないのは事実ではあるのですが、そういったことだけではなく、くだらない、他愛もない会話からヒントが得られるなんてことも当然あるわけです。どちらが正しいというわけではないのですが、一見すると無駄に思えることの中に本質が隠れているかもしれません。そう言えば、前のうちのサイトのコンセプトにそんなことを書いてた覚えが・・・。

少し疑問に思いながら終えたワークショップの帰り道、車の中でつけていたFMからこんな会話が流れてきました。「“ブレてもいい”って思っているほうがカッコイイんじゃないか。」
この会話の流れは、「カッコイイ大人とはどんな人か?」っていう質問の回答なのですが、“ブレない”って割と高い評価として言われる事がある。色々情報を得て、「俺はブレないぞ」って頑張らないで、本当に強い人は芯はブレないで、その時の色々に反応していられる。そういった事が分かっててできる人がカッコイイんじゃないかって。“ブレる”ことを恐れない。というより“ブレない”事を第一にしない。

すごいタイミングで流れてきたラジオの会話に、すごく腑に落ちたし、「僕もそう思う」って確信しました。

そして、“ブレてもいい”ってことはそこには幅があるってことで、幅があるってことは他者が滑り込む余地があるってことで、それは建築をつくるプロセスにおいても、また実際の建築空間においても、ブレない軸をつくることよりも大事なことなんだと思う。