先日、ネットニュースでこんな記事を見ました。


“ホリエモン、高級すし店で「2人3万円」に怒りの有吉弘行に「セコイ」”


まず、この記事の内容を簡単に紹介すると

  • ラジオで、有吉弘行が若手時代に訪れた高級すし店について語った
  • 2人で少し食べただけで3万円だったことを、いまだに恨んでいると告白
  • 堀江貴文氏はこの話題について「セコイ笑。」とツイートした

有吉さんの発言に対し、堀江氏が「セコイ笑。こんなんで恨んでしまう人が大半だから、彼はマスコミで受けるんだろうな」と私見。フォロワーから「こんなんで恨んでしまう人が大半だから彼はこういう話をしてる」とのリプライが寄せられると、堀江氏は「なるほどね。そうかもしれない。しかし、よくそこまで大衆迎合できるよね笑」と対応した。


という話。
僕はこの記事を読んで、堀江氏に対して「よくそこまで上から目線でものが言えるよなぁ」と思った。
ここで言う「大衆迎合」とは、リスナー、つまり「お客さま」に寄せた会話をしているということが言いたいのだろう。単に笑い話としてエピソードを語っただけなのに。そもそも「大衆迎合」はそんなに悪いことなのか。

これに関しては人それぞれのスタンスがあるので、一概に良い悪いと線引きできるものではないと思います。これは建築を設計する際にも必ず問われる問題ですし、その時々の立場で揺れ動いていくものかもしれません。どちらかと言えば、もともとは僕も大衆迎合に反対側のスタンスでした。

ただ、ここでのやり取りの中での堀江氏の上から目線的なコメントには抵抗があります。自分は大衆迎合はしないということだけを言えばいいのに、人の批判というか、自分は他の人とは違うことをアピールする、自分がやっていることや考え方のほうが正しい、と聞こえてしまうのです。

僕自身もともとは堀江氏について好意的で、革命児なんて呼ばれる人はそもそもこういった考え方をするのかもしれないけど、自分以外の考え方は間違っている、または受け入れられないというスタンスは、僕は受け入れられない。


数年前に、KY「空気が読めない」という言葉が流行しました。今は死語かもしれませんが。それは、コミュニケーション能力に欠けるということと全くイコールではなくても、繋がっていると思います。あえて「空気を読まない」または「空気を読みすぎない」なんてこともその後に言われたりもしましたが、「大衆に迎合する」ということは「世の中の空気を読む」ということかもしれない。

確かに空気を読みすぎるのはどうかと思うけども、全く読まないというのもどうかと思う。特に建築においては、自分が発信することだけに主眼を置くのはとても危険だ。「空気が読めない」ということは「洞察力がない」ということに等しい。洞察力がなければ、クライアントの意向に沿うこともできなければ、敷地の特徴を掴むこともできない。

つまりは、「大衆迎合」というより「空気を読む」ことは多少は必要、ということだ。

自分の思いを一方的に伝えるだけではコミュニケーションは成立しない。「communication」の直訳は「伝達、連絡、通信、交信」などの意味だが、語源は「分かち合う」ということらしい。どちらか一方の意見が大きくなるとか勝るというのではなく、双方向のやり取りが必要ということだ。建築界でもしばしば言われている「インタラクティブ」とか「関係性」といったことにも通じることかもしれない。

コミュニケーションとは「伝える」ことではない。「伝わった」ときに初めてコミュニケーションが成立したと言える。人の言葉ですが、この言葉を聞いたとき妙に納得しました。何かを伝えようとしたとき、難しいことを言っても理解してもらえないことが多い。意思疎通を図るには、恥ずかしげもなくわかりやすい言葉で伝えることが必要だ。

途中から話が逸れていった感じがしないでもないですが、大衆迎合という言葉からそんなことを考えさせられました。